金銀山と棚田の成り立ち

金銀山が佐渡にもたらした変化

平安時代末期に成立したとされる「今昔物語集」に佐渡で砂金採取が行われていたとの説話があるほど、古くから金の島として知られていました。鉱山開発が本格化していくのは、越後の上杉景勝が佐渡を支配した戦国時代後期の頃です。鶴子銀山には一攫千金を夢見る人々が全国各地から集まり、「鶴子千軒」と呼ばれるほどの繁栄期を迎えます。新しい鉱脈を求めた鶴子銀山の山師たちによって相川金銀山が発見されると、海辺に十数件の家しかなかった相川の人口は一時期5万人にまで増えたといわれるほど爆発的に人口が増加しました。江戸時代に入ると、佐渡は直轄地(天領)として徳川幕府に直接支配され、徹底した金生産の管理下に置かれますが、日本最大の金銀山として幕府の財政を支えました。
鉱山の繁栄に伴い、産出した金銀を江戸に運び、鉱山で消費する物資(炭や木材など)や生活物資(米や衣類など)を島外から運び込むために、港や街道が整備され、鉱山を中心としたまちづくりが行われます。島内でも鉱山向けの商品生産が盛んになり、食糧需要に対応するための新田開発が行われるなど、佐渡の村々にも大きな変化をもたらしました。

史跡 佐渡金山「道遊の割戸」

史跡 佐渡金山「道遊の割戸」

西三川砂金山

西三川砂金山

世界文化遺産登録を目指す佐渡金銀山はこちらをご覧ください。

人口急増により、山間深くまで新田を開発

佐渡での稲作は弥生時代中期の中頃(約2,000年前)に弥生文化の伝来とともに始まり、国中平野を中心に行われていましたが、戦国時代後期以降、鉱山の繁栄によって爆発的に人口が増加したため、奉行所は食糧対策として農耕地の開発を奨励しました。海岸段丘や山間地では棚田が、湾岸の砂丘には畑がひらかれ、鉱山町相川へ大量の食糧を供給しました。
急峻な地形で水源の乏しい佐渡では、農業用水を確保するため1,000ヶ所を超えるため池が整備され、水路の造成には坑道排水に用いられた掛樋が、灌漑用水の汲み上げには水上輪(アルキメデスポンプ)も使われるなど、農耕地の開発には鉱山の技術が応用されました。

ため池

ため池

水上輪(アルキメデスポンプ)

水上輪(アルキメデスポンプ)

海沿いから山間深くまで新田が開発されたことで、島内各地に美しい里山景観が点在して形成され、独特な農村風景が作り上げられました。また、換金性の高い薪炭やわら製品などの需要による副収入によって、小規模ながら極めて豊かな兼業農家が増えたことで、多様な農村文化が島内各地で育まれました。

山を切り開いて開発された棚田
山間部に広がる棚田
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